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愛 執 ひろこへの未練を断ち切って福岡に戻って来たまことだったが、教会の環境は新たな見知らぬ人間たちが集まっていた。見慣れない集団の中でまことはなじめず、心の窓を閉ざしていた。周りがまことを冷たい視線で見つめていた。忘れていた人間関係に不器用な自分に悩み、言い知れぬ寂しさに襲われていた。ひろこと暮らした安らかな日々が頭に甦ってきては、あの頃の心地よいぬくもりが、自分にとって如何に大切な安らぎの場所だったかを今更ながら思い出していた。まことは選んだ道の過ちと後悔の念とで、急に泣きだしそうになってしまった。
冷酷人間 その後の様子を心配して、ひろこからの小包が送られて来た。お菓子の中に手紙があった。「自分で選んだ道だから、できるところまで最後まで頑張りなさい」と書いてあった。お礼を言おうと電話をかけると、懐かしいひろこの声が聞こえてきた。その後も、ひろこからの電話が時々何度かかかってくるようになった。
だがある日、「未練と情が残るから、東京の人とは決別宣言をして、早く切ってしまうように…」と組織から厳しい忠告を受けた。 その時のまことは、人の情をあだで返す、恩知らずの冷酷な人間にならなければならなかった。組織の絶対的命令に忠実に従うしか、もはや道が無かった。 再 会 東京への思いを捨てる決意をしたまことに、第二、第三の新たな出会いが準備されていた。 まことはなおこの所在を聞き出し「放浪の果てに、また福岡に戻って来ました」と、報告の手紙を出した。 やがて喜びの返事がなおこから来た。電話の声は喜びに溢れていた。こうして一度心が離れたひにくな宿命を背負った二人は再び姉弟の関係になった。 ![]() ある日、なおこは高知からわざわざ逢いに来てくれた。かつての亀戸駅前での裏切り行為を清算し、長い間の重荷が取れた気がした。 父の死 まことは時々、聖書の物語の漫画本を持って父の正喜が入院する日赤病室に見舞いに行った。正喜は、まことがまだ信仰を持ち続けているのを確認した。「もうほどほどにせないかんばい…」諦めたように力無く言った。父はもう息子を大声で叱る元気も無かった。それきり何も言わず、息子の差し出す本を横目で見た。外は日差しの暖かい午後だった。窓際の鮮やかな花がはかなく揺れていた。この時もう父の命は余り残されてはいなかった。 長男ののりおは、父の死を弟に知らせるために教会に何度も連絡したが、対応が悪くて行方を教えてくれず仲々音信が取れずにいた。その頃、まことは直方という開拓地に派遣され、あちこちをさまよっていた。ようやく知らせを聞いて家に帰った時、既に父の息は切れ、白い布が掛かっていた。(僕は祖母の命だけでなく、父の命も心労をかけどうしで奪ってしまった。…父さん…ごめんよ、ごめんよ…)まことはやつれた父の亡骸を見るのに堪え兼ねて静かに目を閉じた。父の霊が何処にいるのか必死に捜し求めた。 その時、ふっと父の顔と祖母の顔が並んで浮かんできた。ゼンの霊と父の正喜の霊が一つに重なって自分を包み込んだような気がした。(まこと!俺のことはいいから自分の道を貫いて行け!)(まこと、がんばれー!)父と祖母は二人とも、まことを許して励ますように笑顔でまことの心に浮かんで現われ、大きくなって包み込みやがて信の背中の方に消えていった。 葬儀が終わって、親族たちが集まっていた。まことは自分を見つめる親族たちみんなの目が敵対している感情を読み取った。まことの姿は兄に比べるとみすぼらしく親不孝な最低の人間に写っていた。のりおも、評判の悪い弟にみんなの前ではよそよそしく対応した。父の「死に目」に間に合わなかった弟を、もはやかばってやる何の条件も無かった。 ![]()
なにごともなく ゲームを続けていると「何やーお前は!どうしようもない奴だ!」人生の落伍者を見るような、軽べつと憎しみを込めた眼差しで睨んで突然大声で口汚くけなした。 だがまことは不義理をしたことを思い出して、そのとき何も言い返せなかった。 その時、まことの脳裏に何かの映像がふっと浮かんだ。祖母のゼンのタンスの小さい引き出しの中にある記念写真が現れた。二見が浦を背景にして並んで写った義勇兵たちが大きく脳裏に広がった。微笑む兵士たちの真ん中にゼンの姿が突然現われたかと思うと、ゼンの顔だけが急に大きく近づいて来た(まこと!、頑張れー!)ゼンは叫びながら、まことの体を包みこむように消えた。 (何だろう…?)まことはあふれる涙を拭きながらも不思議に思った。従兄弟たちの大勢いる中で、まことはタンスの傍でうずくまったまま、長い耐え切れないほどの沈黙の時間が流れていた。 しばらく経って、姉ののぶ子がやって来た。「あんた、もう泣かないで涙を拭いてそのまま寝なさい」と優しく毛布をかけた。 そのまま寝てしまったまことは、翌日目が覚めたが、気まずさで身の置き所が無く、全く起きあがれなかった。(昨夜、頭によぎったものは何だったのだろうか…?)目を閉じて考えていた時、従兄弟の一人が馬鹿にするように、ふざけて何かものを投げつけた。まことはあざけりの言葉以上に、その行為が許せなかった。大切な妄想の時間を邪魔する人間に対して、激しい憎しみを感じた。投げつけられた物は小さな物だったが、まことの誇りの全てを打ちのめしていた。(『目的のためには、肉親の命を犠牲にしても構わない』という非情な自分の「闇夜の誓い」など、どう逆立ちしても到底この世の人達には受け入れられないだろう…)この日、今井家の親族の誰にも悟れない、自分だけに与えられた特殊な「秘密の使命」を痛切に感じていく。 子 犬 まことは、この日を境に自分の中に、何か別のものが入り込んだような感覚になった。まことは再び教会に戻っていたが、今までの生き方ではない、別の新しい「宿命の道」を歩み出そうとしていた。 (一体、この教義のどこが間違っていて、世間には受け入れられないのだろうか…?)本格的に教義に隠された矛盾点を調べ始めていた。(これからの自分の生き方をしっかりと考え直し、この道を進むか、捨てるかの結論をきちんと出さなければならない…)まことは、洋服がたくさん掛かっている更衣室の奥に小さな座り机を置いて、自分だけの仕切られた空間を作って、ひそかに一人で教義の本を深く調べるようになった。 ![]()
![]() そのころ、組織に「かずよ」という小柄の女性がいた。かずよは、まことが子犬を可愛がる様子を、微笑ましく見ていた。いつも孤立して寂しそうにしているまことが気になり、微笑みを忘れたまことに笑顔を取り戻してあげようとまことの顔をじっと目で追うのだった。 ある日、まことはかずよと目が合った。ニッコリ笑って心の底からまことを受け入れていた。まことはこの小さな女の子が、自分のことを心配しながら見つめ、体を張って受け入れてくれていることに気がつき、心臓が「ドキン!」とした。 かずよは少し前、教会の人たちが話す自分に対する陰口を偶然に聞いて以来、大変気になることがあって、ずーと考えていた。
だが一人で離れる勇気も無く、心細い不安を感じながら、仕方なくその機会が来るのをじっと静かに待っていた。 逃避行 まことは親族からの憎しみを受けてから(この道は間違いかも知れない…)と思い始めていた。そのような時にまことはかずよに出会った。 かずよはまことより二つ年下だったが、人が絶対に嫌がることをあえて進んで、自分から手をあげて引き受けたり、時々突飛な行動をする事があった。まことの目にはその無茶苦茶なところが、摩可不思議な存在として写っていた。 (二度と神様を裏切れない…)と自分に言い聞かせながらも、東京のひろこの面影を追い求めて思い出しては(帰ろうかな…)と考えているまことの本心を見抜いたのか、かずよは次第に近づいて来た。 ある日、まことはかずよと二人でペアを組んで町を訪問する仕事を任じられた。何軒か家を廻る内に、何となく心地よい感覚を覚えていた。お互いの心の背後で「歓喜の霊」が湧いて来るのを感じた。互いに自分を解放してくれる「運命の相手」に出会った喜びを直感的に感じていた。大勢の兄弟姉妹の中で、彼女はただ一人「天衣無縫」と言うべき純粋な心を持つ、特殊な不思議な女性だった。 車の中で二人きりになった時、まことはかずよの手を無言で握った。お互いの心が求め合っていることを悟った。恋愛の情というより、彼女の「純真な心」が、まことにはどうしても手に入れたい「宝物」に思えた。 ![]() やがて周りの者が、二人のことを、恋愛を禁ずる組織の教えに背いた者と見るようになった時、二人は密かに示し合わせて脱会する手はずを決めた。 ある日、まことはかずよを連れて汽車に乗り、実家に向かっていた。まことは窓から海を見ながら暗かった学生時代のことをかずよに聞かせてあげた。旅の気分になったのは久しぶりだった。かずよはまことの実家に連れて行って貰えるのが嬉しかった。だが車窓からの海辺の家並みを見たとき、かずよはこの地域全体に何か言い知れない、切ない淋しさが漂うものを感じた。車内の壁に貼ってある糸島の地図が(何かの動物の形をしているわ…)と思ってぼんやりと見上げていた。 この日二人はかつてゼンの使っていた二階の部屋に泊まることになり、さんざん歩き疲れていたので布団を並べて敷いて早めに床についてすぐに眠った。深夜、仕事から遅く帰って来た兄ののりおは夕食をとりながらまことが脱会する話を母のチカから聞いた。食事を終えて階段を上がってきた。兄のりおは自分の部屋に入ろうと襖の前まで来た時、二つの布団のこちら側にいる見知らぬ不思議な雰囲気の女性の顔と目があった。「おっ」驚いてしばらく見つめたが、すぐそのまま自分の部屋に入り襖を閉めた。かずよは初めてのよその家に泊まる緊張感でなかなか寝つけずにいた。翌朝早く起きだした兄のりおが部屋から出るとき、かずよと再び目が合った。兄がかずよを見たのは布団に入った状態の顔だけで、夜と朝の二回、ひと目見ただけだった。 ![]() ある夜、二人は脱出を決行した。闇夜の逃避行のスリルを感じながら、あてもない未来の世界に向かって、雑踏の中に消えていった。 ――――――――― おわり ――――――――― 青年となったまことは、やがて自分の青春時代を振り返るとき、かつて「暗闇の誓い」で約束した非情の契約のことを、どんな形で回想するのだろうか? 驚愕する使命が見えてきた時、果たしてどんな気持ちで全ての路程をことごとく通過していたことに気がつくのだろうか。 |
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小 説 |
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